日本遺産・北前船情報

日本遺産登録 荒波を越えた男たちの夢が紡いだ異空間~北前船寄港地・船主集落~

日本海や瀬戸内海沿岸には、山を風景の一部に取り込む港町が点々とみられます。
そこには、港に通じる小路が随所に走り、通りには広大な商家や豪壮な船主屋敷が建っています。
また、社寺には奉納された船の絵馬や模型が残り、京など遠方に起源がある祭礼が行われ、節回しの似た民謡が唄われています。
これらの港町は、荒波を越え、動く総合商社として巨万の富を生み、各地に繁栄をもたらした北前船の寄港地・船主集落で、時を重ねて彩られた異空間として今も人々を惹きつけてやみません。


日本遺産登録 下津井節

港町下津井に伝わる岡山県を代表する民謡です。北前船の船頭達によって広まり唄い継がれてきました。
毎年開催されている唄い手日本一を決める全国大会では、下津井港に出入りした北前船や常夜灯をイメージした飾りが添えられた舞台で、出場者は三味線や尺八に合わせて節回しを披露します。

北前船関連情報

本日は、ようこそ「むかし下津井回船問屋」へお越し下さいました。当館は、その昔、北前船との交易を通じて莫大な財産を築いた商家です。屋号を「高松屋」と称し、当館以外にも、西隣に、その当時の風情をとどめた建物が残っています。

交易が一番盛んだった頃には、海岸線にニシン蔵がずらりと並んでいました。これらニシン蔵に山積みにされたニシン粕は、ニシン御殿で有名な北海道(当時は蝦夷と呼ばれていました)から千石船に満載されて来ました。

江戸時代から明治初頭にかけ、当地児島周辺では急速に干拓が進み、塩分の残る干拓地に植えられたのが綿花でした。この綿花の増産のために欠かせない肥料がニシン粕でした。今日のジーンズの街児島の発展を語るとき欠かせないのが北前船との交易です。

無尽蔵とも言われるほどに捕獲されたニシンは、その場で煮られ、それを絞ったものがニシン粕でした。北海道において必要だったのは、ニシン粕ではなくニシン油でした。

一方、蝦夷では不要だったニシン粕をこの地に持ち込めば莫大な稼ぎになることから、盛んにニシン粕が運ばれて来るようになりました。その役割を果たしたのが、千石船と呼ばれた北前船だったのです。最盛期には、ワンシーズン(10月頃)に八十三艘もの北前船の船団が寄港したと言います。往時の繁栄が偲ばれます。

また、北前船が持ち込んだものの一つに、花街のお座敷で歌われた「下津井節」がありました。このように北前船はニシン粕などの商品ばかりではなく、人もお金も文化もこの地へ運んできたのです。時間があればゆっくりとお過ごし下さい。そして江戸時代へのタイムスリップをお楽しみ下さい。

本館二階

(北前船、漁業、金比羅関係、町屋のくらしで使われていたものを展示)

母屋二階展示室1

母屋二階展示室1

母屋二階展示室2

母屋二階展示室2

母屋二階展示室3

母屋二階展示室3


いんふぉめーしょん館

(むかしの下津井などを紹介)

いんふぉめーしょん館1階1

いんふぉめーしょん館1階1

いんふぉめーしょん館1階2

いんふぉめーしょん館1階2

いんふぉめーしょん館二階1

いんふぉめーしょん館二階1

いんふぉめーしょん館二階2

いんふぉめーしょん館二階2


収蔵庫

(むかし使用した民具などを展示)

収蔵庫1

収蔵庫1

収蔵庫2

収蔵庫2


蔵さろん・蔵ほーる

蔵さろん

蔵さろん

蔵ほーる1

蔵ほーる1

蔵ほーる2

蔵ほーる2


下津井の歴史紹介

(源平合戦の頃・・・田土浦公園歌碑、戦国時代~江戸時代・・・下津井城)

源平合戦の頃
倉敷市下津井地区が吉備の児島の一部だったころ、周辺では数多くの源平合戦が繰り広げられた。源平藤戸合戦、源平合戦水島古戦場、下津井合戦(倉敷市下津井)などである。平家方は、もっぱら海をよりどころにしていたので源氏方に追い詰められて

海の要衝
かねてより下津井沖を荷物や人を乗せた船が盛んに往き来するようになってから、この地は海の要衝と言われるようになった。かつては見張り小屋に過ぎなかったものが、徳川幕府になって池田家三万二千国の本格的な城が築かれた。この城は、下津井港の背後に横たわる小高い山の上に築かれ東西に長い城であった。しかしその後、一国一城令が公布され、取り壊されて以来、石垣のみが残っている。

ニシンの〆粕と綿作、そして繊維の街・・・日本遺産登録情報
この度、倉敷地区、児島地区、玉島地区がそろって日本遺産となった。サブタイトルは「一輪の綿花から始まる倉敷物語」である。実はその昔「吉備の児島」と呼ばれた大きな島が瀬戸内海に横たわっていた。そして、この島の背後(北側)には「吉備の穴海」と呼ばれる広大な海が広がっていた。波穏やかなこの海には岡山県を代表する五つの河川が流れ込んでいた。西から高梁川、倉敷側、笹瀬川、旭川、吉井川である。これらの河川から流れ込む大量の土砂は次第に海を浅くしていった。今から約五百年前、時の岡山城主宇喜多秀家の頃になって本格的な干拓工事が始まった。こうした干拓は昭和に至るまで続き、島は陸続きとなり今日の地形が形作られた。これら干拓地は元々海の底であったところであり、塩害で作れる農作物は限られていた。その限られた農作物の中に時代が要求していた藍の栽培や綿作があった。綿はかつて海底だった砂地を好み、塩害には強かった。こうして干拓当初は大量の綿花が栽培された。その栽培に必要だったのが干し鰯(か)であった。しかし、大量に栽培されるようになると、近隣で調達できる干し鰯では足りなくなった。そこで代替品として仕入れが始まったのが、当時、北海道で大量に捕獲されていたニシンから作るニシンの〆粕であった。小樽や江差周辺ではニシンを捕獲すると、大釜で煮て圧搾機にかけ、水と油を抜き天日干しにした粉状のものをニシンの〆粕と言い、下津井へ運んでくれば飛ぶように売れたのである。こうして長年月、実に大量のニシンの〆粕がこの地へ運び込まれた。その役割を担ったのが北前船であり、当館の前進である回船問屋であった。下津井は明治30年頃まで空前のニシンブームに沸いた。当館には、その当時の詳細な資料が展示されており、重厚なたたずまいの古民家やニシン蔵は往時の繁栄を偲ぶにふさわしい建造物である。